2009年07月04日

帝国大学令によって設立された大学のことである

帝国大学(ていこくだいがく)とは、1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって設立された大学のことである。以下のように、1校のみの時期はその大学の名称として、2校以上になってからは大学群の総称として使われた。

1886年?1897年:日本唯一の大学であった東京大学(1877年設立)が帝国大学令に基いてつけられた名称。
1897年?:帝国大学令に基いて設置された複数の大学群の総称。最終的に、内地に7校、外地に2校設置された。
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帝国大学は、日本の最上位の国立高等教育機関および研究機関として設置された。「大学」および「大学院」が存在しなかった当時、帝国大学には複数の専攻科が設置された大学、および、学際的な研究を理念とする大学院が設置された。各帝国大学は、前身となる高等教育機関を包摂して改組・改称したり、学部を新設したりするなどしてその組織を整備し、時代が下って帝国大学以外に単科大学などが設置される中でも日本の高等教育や研究をリードした。戦後は「帝国大学」との名称を廃し、日本で有数の、あるいは各地域を代表する総合大学となっていった。

大正時代まで、卒業時、学科ごとに最優秀のものには天皇から恩賜の銀時計が下賜された。1886年(明治19年)には、卒業生のクラブとして学士会(本部・東京都)が設けられた。今日においても旧帝国大学出身者は同会への入会資格が与えられる。

2009年06月14日

パラフィンは直鎖型の分子構造をもつ

パラフィンは直鎖型の分子構造をもつノルマルアルカン(ノルマルパラフィン)、分岐(枝分かれ)をもつイソアルカン(イソパラフィン)、環状のシクロアルカン(シクロパラフィン)の3種類に分類される。

通常パラフィンという場合はノルマルアルカンを指す。

短鎖と長鎖 [編集]
通常パラフィンは均一の物質ではなく「構成する炭素鎖」がさまざまなものが混ざっている。パラフィンのなかで炭素鎖が長いものを多く含むものは固体状で、「石油ワックス」と呼ばれる。 一方、炭素鎖に短いものが多く含まれるものは常温常圧で液状であり、「流動パラフィン」(liquid paraffin) と呼ばれる。
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物性 [編集]
揮発性が非常に低く化学的な安定性が高い。熱を伝えにくい。常温で液体または固体。精製度の高いパラフィンは無色。

良質のパラフィンは電気的に非常によい絶縁体で、電気抵抗はおよそ1017 Ω。テフロンとして知られる素材以外にはこれ以上の絶縁体はない。

石油ワックス [編集]
無味無臭。ろう状の固体。融点は約47?65 ℃。水には不溶であるが、エーテル、ベンゼン、エステル類に溶解する。パラフィンはほとんどの化合物に対して反応性が低いが、着火すると速やかに燃焼する。

石油ワックスは、蝋(ろう:ワックス)と役割が似ているが、化合物として分類した場合に蝋は高級アルコール類となる。

流動パラフィン [編集]
常温では無色の液体で非揮発性。わずかに臭う。水には不溶。第3種有機溶剤で引火性があり危険物である。化学的に安定な物質で、通常の条件では酸化を受けない。乳化しやすくのびや浸透性に優れる。純度は紫外光の吸光度により計測される。

流動パラフィンには多くの呼び方がある。ヌジョール (nujol)、ミネラルスピリット、ミネラルターペン、ホワイトスピリット、ホワイト油、白色鉱油、石油スピリット、ミネラルシンナー、ペトロリウムスピリット、水パラフィン、ミネラルオイル、ミネラルオイルホワイト、医療用パラフィン (medicinal paraffin)、パラフィンファックス、saxol、USP mineral oil、adepsine oil、Albolene、glymolなど。

工業用ガソリンの一種、塗料の材料として用いられる。油性の汚れを落とす効果にすぐれるため化粧品にも利用される。医薬品添加物および食品添加物に使用されるのも流動パラフィンである。食品衛生法上では、「パンのデバイダー油(離型剤)」としてのみ使用が許可されている。下剤にも使用される。

2009年05月29日

ギリシア哲学

ギリシア哲学(ギリシャ哲学)とは、かつて古代ギリシアで興った哲学の総称。現在でいう哲学のみならず、自然学(物理学)や数学を含む学問や学究的営為の総称である。

「哲学(ギリシャ語:Φιλοσοφία, philosophía, ピロソピア)」および「哲学者(ピロソポス)」という言葉を最初に用いたのはピュタゴラスであると言われる[1][2]。「哲学者」を含めた「知者(ソポス)」は「ソフィスト(ギリシャ語:σοφιστής, sophistés, ソピステス)」とも呼ばれ、詩人もこれに含まれた[3]。

ディオゲネス・ラエルティオスはギリシア哲学の起源を、アナクシマンドロスから始まるイオニア学派(厳密にはミレトス学派)と、ピュタゴラスから始まるイタリア学派(ピュタゴラス教団のこと)に大別し、ソクラテス(ソクラテス学派)やプラトン(古アカデメイア学派)は前者の系譜で、パルメニデス、ゼノン(ともにエレア派)、エピクロス(エピクロス学派)らは後者の系譜であると主張している[4]。さらにディオゲネス・ラエルティオスは、哲学には自然学・ 倫理学・論理学の三つの部門があり、まず自然学が発達し、次いでソクラテスが倫理学を加え、ゼノンが論理学を確立し、倫理学にはアカデメイア学派、キュレネ学派、エリス学派、メガラ学派、キュニコス学派、エレトリア学派、詭弁学派(ソフィストなど)、逍遙学派(ペリパトス学派)、ストア学派、エピクロス学派という10の学派があったとも主張している
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ソクラテス
プラトン(古アカデメイア派)
アリストテレス(逍遙学派またはペリパトス派)
キュニコス派(犬儒学派) - アンティステネス(ソクラテスの弟子)、ディオゲネス、テーバイのクラテス
キュレネ派 - アリスティッポス(ソクラテスの弟子)
メガラ学派 - ソクラテスの弟子のメガラのエウクレイデスが設立。
エリス/エレトリア学派 - エリスのパイドンが設立。

2009年04月25日

フラーテス1世

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フラーテス1世(Phraates I、在位:紀元前176年 - 紀元前171年)は、アルサケス朝パルティアの王。

彼は前王フリアパティウスの息子として生まれ、父の跡を継いでパルティア王となった。父王の治世にセレウコス朝のアンティオコス3世(大王)がローマとの戦い(マグネシアの戦い)で破れ弱体化していたため、パルティアは再び自立勢力となることができた。彼の治世にカスピ海岸東南、アルボルズ山脈を拠点とする山岳民族マルド人を征服し沿岸を支配権に置いた。またパルティアの南東に割拠する遊牧民族シミディアン(simindians)を平らげた。北方遠征に取り掛かるも補給の問題から、メディアの残りを完全に押さえる方向へ方針転換する。特に山頂に築かれているハロン要塞を遠征の重要拠点として落とす必要性があった。フラーテス1世は攻略戦に取り掛かる途上、スキタイと残存マルド人の同盟の奇襲作戦を受ける。伏兵によってフラーテス1世は腹に矢を受け、その傷が元で亡くなる。


彼は、亡くなる前に自分の息子ではなく、優秀な指揮官である弟のミトラダテス1世を後継者に指名した。ミトラダデス1世は期待に応え、伏兵を退け退却戦を全うし、無事本拠に隊を帰還させた。

2009年04月09日

ロックシーンの巨大産業化

産業化したヘヴィメタルが派手な方向を目指す一方で、デュラン・デュランやユーリズミックス、ワム!といったバンド群もメタルシーン同様にMTV効果を最大限に活かした演出で市場を賑わし、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンの旋風を起こす。

上記のとおり、1980年代の音楽シーンを語る上でさけて通れないのがMTVである。1981年、バグルスの 「ラジオ・スターの悲劇」で放送開始した音楽専門のケーブル放送チャンネルは、ロックシーンを産業化していき、巨大な影響力をもつようになっていく。MTVでインパクトのあるビデオクリップを流すことが、「売れる」要素になっていき、ビリー・アイドル、マイケル・ジャクソン、マドンナらがスーパースターとなっていった。

この頃の音楽業界は、膨大な枚数のCDセールスが相次ぐ空前の好景気であり、ライヴ規模も含めて市場は巨大化の一途を辿った。以前から活動してきたミュージシャン達もこの時流に乗り、クイーンやフィル・コリンズ主導のジェネシス、ブルース・スプリングスティーンらがスタジアム級の巨大公演を世界中で実現させ、U2の「ZOO TV」ツアーにおいてそれは頂点を迎える。
その流れは、チャリティー・ライヴ・イベントバンド・エイド開催など巨大慈善コンサート・ブームにも結実したが、ロックの商業的な肥大化は進む一方であった。

オルタナティブ・ロックの勃興(1991年-1996年) [編集]
MTVが派手な産業ロックを垂れ流す一方、有線放送チャートやインディーズチャンネルでは、1970年代のパンクから1980年代のニューウェーブの精神性に連なるオルタナティブ・ロック(=非主流・型にはまらないロック)と呼ばれるサウンドが姿を現していた。この支持者たちは、メインストリームを闊歩するヘヴィ・メタルや市場の産業化を嫌悪し、独自のコミュニティを形成した。

その中から、アンダーグラウンドでの抜群の活動実績をもつR.E.M.がトップ・チャートでの最初の成功を獲得すると、次第にオルタナティヴ・シーンが活性化。その熱気を受け継ぐように1991年、ニルヴァーナがデビュー作『ネヴァーマインド』を全世界で大ヒットさせ、彼らの出身地シアトルを震源にグランジブームが全米を席巻した。このグランジ旋風は既存のロック・シーンに大きな衝撃を与え、この波に押し流された多くのメタルバンド達は表舞台からその姿を消していった。

1994年のニルヴァーナのリーダーであったカート・コバーンの自殺により、グランジブームはオルタナティブ・ロック・ムーブメントに呑み込まれる形で終わりを迎える。しかしさらに多様性を増したオルタナティブ・シーンは、ドラマティックな楽曲展開で絶大な支持を得たスマッシング・パンプキンズやパール・ジャムらを中心に、フー・ファイターズやウィーザーのようなグランジを経過した上でのキャッチーなメロディを提示したバンドによって引き継がれていく。

また、これとほぼ同時期、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの5thアルバム『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』(1991年)の大ヒットにより、グランジとはまた別のオルタナティヴ・ロックとして、ファンクやヒップホップのグルーヴ感を取り入れたラップロックも市民権を得た。これらは日本ではミクスチャー・ロックとも呼ばれた。
さらには、DIY精神に則り、雑多なジャンク嗜好と手作り感を敢えて実践する手法(=ロー・ファイ)を用いた職人志向のミュージシャンも注目を集め、ベックやフレーミング・リップスらがその俊英として脚光を浴びる。

ほどなく、これらグランジもミクスチャーもローファイも全てひっくるめた「型にはまらない新しいロック」の総称としてオルタナティブ・ロックがロックのメインストリームとして定着し、一定の音楽性を示す用語ではないもの、1980年代のHR/HMとは違うロックのためのくくりとして、メジャーな1ジャンルへと転化していく。

ニュー・メタルとポップ・パンク(1992年-2000年) [編集]
オルタナティヴ・ロックの主流化を担ったミクスチャー・ロックは、よりヒップホップとの融合を掘り下げて進めたレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンによって発展し、コーンらとともにラップメタルの1大ムーヴメントを興した。同時期には、グランジによって刷新されたメタル・シーンの新たな旗手としてマリリン・マンソンやナイン・インチ・ネイルズ、トゥールなどが人気を博す。
この動きは、80年代の産業ロック・メタルとは違う新たなヘヴィ系ロックとしてニュー・メタルと呼ばれた。

1990年中頃になると、グリーン・デイとオフスプリングが登場。彼らの登場は、グランジ旋風によって垂れ込めていた退廃的な空気を一蹴するように、ポップでわかりやすいメロディーに彩られたポップ・パンクが10代の若者を中心に爆発的に広がり、これにランシドやNOFXも続き、大きな成功を収めた。

しかしながら、アメリカ中心の上記両シーンは、直後からブームに便乗した一過性のフォロワーによる追随が蔓延する事態を招き、リンプ・ビズキットやリンキン・パーク、あるいはサム41やフォール・アウト・ボーイ等のブレイク辺りですでに産業化の様相を呈し、次第にシーンは飽和形骸化し当初の革新性を失っていった。

デジタル・ロックとポスト・ロック(1990年-2000年以降) [編集]
これらアメリカの動きとは別に、イギリスでは80年代末から90年代初頭にかけてハウス・ミュージックが流行し、新型のドラッグ流布と相まってレイヴカルチャーが形成されていた。ストーン・ローゼズやプライマル・スクリームなどはダンス・フロアの盛況とサイケな空気感をバンドで体現してマッドチェスタームーブメントを牽引。

この動きを下敷きに、旧来のテクノミュージックとオルタナティブ・ロックとの融合を図ったプロディジーやケミカル・ブラザーズが登場し、ロックとダンスのクロスオーヴァーをビッグ・ビートとして大成させた。
一方で、テクノロジー技術の発達による電子音楽・サンプリング音楽の発展から、エレクトロニカやヒップホップをロックに取り入れつつも、それをひたすらダウナーに鳴らし「踊れないダンス・ミュージック」として体現したマッシヴ・アタックやポーティスヘッドなどのトリップホップアーティストも続々とシーンに登場し、主に欧州を中心に人気を得る。

こうしたデジタル・テクノロジーの発達は、レコーディングのプロセスと風景を一変させ、音楽創作におけるプロダクションに大きな可能性を与えた。この先鋭化は、前衛志向のミュージシャン達による実験的なアプローチを促し、ロックの解体と再構築という試みが進んだ。この動きはエイフェックス・ツインやオウテカ、DJシャドウらによって徐々に形作られ、モグワイやシガー・ロスが登場する90年代末?2000年にはポスト・ロックとして商業的にも認知されるようになる。

インディ・ロックの時代(1994年-2000年以降) [編集]
1990年代中盤、グランジに揺れたイギリスでは、アメリカのロックへのアンチテーゼとしてブリティッシュ・ロックへの原点回帰的サウンドともいえる、オアシスやブラーに代表されるブリットポップムーブメントが発生した。そしてその後を追う形でレディオヘッドやトラヴィス、コールドプレイ、ミューズといった叙情的なバンドが登場し、2000年代の潮流の一つを作った。

その後、世界的なヒップホップ・R&Bの台頭の中で勢いを失っていたロック・シーンであるが、2001年にストロークスを始めとして、ホワイト・ストライプスやリバティーンズなどがデビューし、『ロックンロール・リバイバル(又はガレージロック・リバイバル)』と名付けられたロック復権の動きが起こり、現在(2009年)なお人気を博す。

ポストパンク、ニューウェーブリバイバル(2005年以降) [編集]
フランツ・フェルディナンドやアークティック・モンキーズといった、1980年代のニュー・ウェイヴやポストパンクを思わせる鋭角的でダンサブルなビートを取り入れた、ニュー・ウェイヴ・リバイバルやポストパンク・リバイバルと呼ばれるバンドたちも続々と台頭し、新たな勢力としてチャートを賑わせている。それらはやはりローファイなギターロックと言う面で、ザ・リバティーンズからの影響が色濃い。

イギリスのカルチャーの変化の影響もあってか、ダンスミュージジックが主に中心となってメインストリームを闊歩している。また、インターネットの隆盛により、ロックでもネットをバンドのプロモーション・紹介に利用する動きが世界的に活発となった。

1980年代から1990年代へ移り変わる際のシーンの動向とは違い、2000年代においては1990年代のバンドも依然セールスを堅持しているのも特徴。1970以前のバンドの再結成もチャートを賑わせている。

恋人の色 ビーチ オーデコ ダチョウ 夢の恋路 ドゥーム プライマー ばんどう エブロ 黄昏ワル てっぷ フォロ フィラ チジン やはぎ ファイ ルソー フレンド アンラ イーシ フォークタ すずりいし らいち 夢待人 四季彩 日本の島々 真珠 デレヨイ ツーリスト オブソリ トーキ きがん サガ スクアレ スイムタル オーバル タージ ヒュッテ ミニホ ラーキー オービス スカフェ タイム イメージ ロボール 愛の ロンドン スターム ライブラリー マゼラ


2009年03月25日

富山地方鉄道14760形電車

14760形電車(14760がたでんしゃ)は、富山地方鉄道の車両。
富山地方鉄道創立50周年にあたる1979年(昭和54年)に、同社初の冷房車としてモハ14761~14766の6両が竣工した。翌1980年には、鉄道友の会よりローレル賞を受賞した。

1979年から1981年にかけての3年間に渡って増備が続けられ、1981年の最終増備時にはモハ14770形が存在したために例外的にモハ14760とされていた、1980年製造のモハ14769とペアを組む偶数車を、モハ14770形を14790形に改番した上で本来あるべき番号である14770に改番し、モハ14761~14774に揃えた。また、増結用として同系の制御車「クハ175」が存在し、グループ全体では15両が新造された。その後奇数車はモハ14761形、偶数車はモハ14762形と形式が変更されたが、実態には変更がない。

車体 [編集]
製造は従来通り日本車輌製造が担当しており、その車体設計は同社が1964年に手がけた10020形のレイアウトを基本としている。従って窓配置はd2(1)D2x4D(1)2(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)、車体長は18m級で、前面は2枚窓構成である。また、自社発注車両の伝統的な特徴である引き戸式の乗務員扉も引き続いて採用している。

ただし、前面デザインは上部に後退角が付けられ、窓も大型化してセンターピラーの細い連窓状となり、列車種別・行先表示幕が大型化された窓の内側に、周囲を黒く塗装の上で設置されるなど、当時の流行を反映したデザインとなり、側窓も当時の流行であるユニット式の2段上昇窓が採用されるなど、各所のデザインがリファインされており、印象は一変している。

連結器上部には回転式タイフォンカバーが左右対称に2基設置されているが、実際にタイフォンが設置され、吹鳴されるのは運転台寄りの1基のみで、車掌部寄りのカバーはタイフォンを増設・換装することを考慮して、準備工事(予備)となっている。

新造時は初の高性能車となった14770形以来の、富山の県鳥である雷鳥をイメージした白色とグレーの塗装にあずき色のラインが入った塗装であったが、一部は上半分が黄色で下半分が緑の新塗装に変更されている。

車内は新造時は扉間が転換クロスシート、車端部はロングシートであったが、10030形のワンマン化改造で特急運用が増加し、これに伴い車端部のクロスシート化が進められた。 なお、ワンマン化改造にあたり、乗務員室後方の座席が撤去されたが、一部の車両は新幹線0系の廃車発生品である簡易リクライニングシートが車掌部後方に設置されている。

その他、何種類かの車内チャイムが搭載されており、かつては特急列車の車掌放送時などに流れることがあったが、特急のワンマン運転が実施されて以後は、耳にすることができなくなった。(放送機器自体が撤去、変更されている可能性もあり。)チャイムに採用されていたのは下記の曲。

鉄道唱歌
夏は来ぬ
雪山賛歌
また、一時はミュージックホーンが取り付けられていたが、現在は撤去されている。

主要機器 [編集]
台車は全車とも日本車輌製造ND-308、主電動機は端子電圧375V時定格出力110kWの東洋電機TDK-8205Aを各車に4基ずつ搭載し、駆動システムはギア比6.07の中空軸平行カルダン駆動、主制御器は1台で2両分8基の主電動機を制御する1C8M方式の東洋電機ES-777-A-Mを奇数車に搭載している。

ブレーキは発電制動併用のHSC-D電磁直通ブレーキで、連結器は新造時には小型密着自動連結器を装備していたが、後年全車とも密着連結器への交換が実施された。

冷房装置は集約分散式のユニットクーラーを各車4基搭載し、これに給電するために偶数車に75kVAの電動発電機を搭載していたが、後にクハ170形などの冷房化時に一部がこれを供出し、代わりに最新の100kVA級インバータが搭載された。

ワンマン化 [編集]
本系列のワンマン化改造は、1997年(平成9年)ごろから当時、特急運用に就かなかった編成から順次行われた。さらに2004年(平成16年)より、特急列車のワンマン運転を実施するのに伴い、特急専用車両のワンマン化改造工事が実施された。なお、2004年にワンマン化工事を施工された車両は、運賃表示機に液晶ディスプレイを採用し、運賃表示のほか、系統図などのさまざまな情報表示が可能になるなど、前期改造車と若干相違点が見られる。現在、普通から特急まで幅広く運用されている。

多くの列車は2両の固定編成単独での運用が基本だが、朝夕の通勤通学のラッシュ時や多客時の特急などを中心に、クハ170形や同系列同士を増結した3?4両編成での運用もある。なお、この場合、ワンマン運転は不可能なため、車掌が乗務する。

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2009年03月09日

ロベルト・シューマン

ロベルト・アレクサンダー・シューマン(Robert Alexander Schumann, 1810年6月8日 - 1856年7月29日)はドイツの作曲家、音楽評論家。ロマン派音楽を代表する一人。名ピアニスト、クララ・シューマン(Clara Josephine Schumann, 旧姓ヴィーク Wieck)は妻である。

ドイツ、ザクセン王国のツヴィッカウに生まれる。5人兄弟の末っ子であった。父は出版業者で、著作も行っていた。シューマンはそのような環境の中で、早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作を試み、豊かな才能を示した。息子の音楽の才能を認めていた父は1826年に亡くなり、安定した生活を願う母の希望で法学を学ぶことになり、1828年にライプツィヒ大学に入学した。

しかし、シューマンは音楽家への夢を捨てることができず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークのもとに弟子入りし、ピアノの練習に励んだ。同年、シューマンの作品、『アベッグ変奏曲』が初めて出版された。1831年には改めて正式に作曲も学び始め、ハインリッヒ・ドルンに師事した。しかし、過度のピアノの練習により手を痛めたため、ピアノの演奏を諦めなくてはならなくなり、音楽評論家、作曲家として生計を立てる決意をした(近年の研究では、手を痛めたことが疑問視されている。薬指関節部分の腫瘍が元で指が動かなくなったことが直接の原因であると見られる)。

評論家としては、1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当。1836年には主筆となり、1843年に至るまで務め、活発な活動を行った。

一方、1834年の夏には、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛事件があり、それは『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれるきっかけとなった。その後、ヴィークの娘の名ピアニスト、クララとの恋愛が進行し、2人は婚約した。それはヴィークの激しい怒りを買い、シューマンとクララはつらい思いをせざるをえなかった。そのような日々の中で『幻想小曲集』(作品12)、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』などが作曲された。1839年、2人は遂に訴訟を起こし、翌年結婚が認められた。2人の間には8人の子供が生まれた。

それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンだったが、1840年には歌曲の作曲に熱中し、1年ほどの間に『詩人の恋』、『リーダークライス』作品24と作品39、『女の愛と生涯』などを続々作曲した。いわゆる「歌の年」と呼ばれる。

1841年は「交響曲の年」と呼ばれ、交響曲第1番『春』や交響曲第4番の初稿が書かれた。このうち第1交響曲は3月31日にすでに親友となっていたフェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会で初演され、大成功をおさめた。

1842年には『ピアノ五重奏曲』などの室内楽曲が集中して書かれ、さらにその翌年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれるなど、年を追うごとにシューマンの作品の幅は広いものとなっていった。
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1844年、ドレスデンに移住。ピアノ協奏曲などの作曲に励んだが、この頃から徐々に精神の均衡が崩れる兆候が出てくるようになり、その危機を脱しようとバッハの研究に没頭、オルガンやピアノのためのフーガを書き、また、1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲した。1848年には唯一のオペラ『ゲノフェーファ』が書かれた。

1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住。同地の明るい風光はシューマンに良い影響を与え、交響曲第3番『ライン』やチェロ協奏曲、多数の室内楽曲を作曲するとともに第4交響曲の改訂をおこなった。大規模な声楽曲『ミサ曲 ハ短調』や『レクイエム』も手がけた。しかし、1853年には余りに内向的なシューマンと楽員の間が不和になり、11月には指揮者を辞任することとなった(これはシューマンの指揮者としての能力の欠如も影響している)。『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品である。

1853年9月30日、シューマン家に当時20歳であったヨハネス・ブラームスが訪問し、彼は自作のソナタなどをシューマンとクララに弾いて聴かせたが、これに対してシューマンは久しぶりに評論を書き、「新しい道」という表題でその若者を強く賞賛し、未来を予言した。ブラームスは晩年のシューマンの希望の星であった。

しかしブラームスと出会ってから半年もしない1854年に入ると、本人も自覚していた元々の躁鬱、音楽監督時の精神的疲労に加え、青年期に娼婦より罹患した梅毒に起因するとされる精神障害が著しく悪化し、2月27日にデュッセルドルフのライン川に投身自殺を図った。間もなく助けられたが、その後はボン・エンデニッヒの精神病院に収容され、面会謝絶のためクララにも殆ど会う機会は与えられなかった。近年当時のカルテが発見され、症状に梅毒の兆候が認められた上、シューマンは『デュッセルドルフが消滅した』と真剣に語ったという。

シューマンは病床でも作曲を試みるなどしたが(この時期に書かれた作品や手紙はクララによって後に破棄された)、回復しないまま1856年7月29日にこの世を去った。最後の言葉は、ワインを指につけて夫にしゃぶらせるクララを腕に抱いて囁いたという「俺は知っている」(Ich weiß)であった(クララがその様子を日記に書いている)。これがブラームスとクララ・シューマンの不倫の事なのかどうかまでは、ついに決定的証拠が残されることがなく、現在でもシューマン研究の論争の種である。なお、かつてシューマンの8人目の子供フェリックス(1854年 - 1879年)はブラームスの子供ではないかとの憶測を呼んだが、現在は否定的な見解が多い。しかしこの件でシューマンは、自分に似ていないということでクララと喧嘩をしている。

2009年02月21日

アルスラーン戦記

『アルスラーン戦記』(アルスラーンせんき)は、田中芳樹による大河ファンタジー小説。また、それを原作とするアニメ。19世紀のイランの作家であるナギーボル・ママレク(???? ???????)のアルスラーン・ナムダルという本をモチーフにしている。そのため、作中の名称は基本的にペルシャ語となっている。
ルシタニアに征服されたパルスを奪還するまでを描いた第一部(1?7巻)と、ミスルやチュルクといった隣国やかつてパルスを震撼させた蛇王ザッハークとその眷属たちとの戦いを描いた第二部(8巻?)で構成され、全16巻(第1部7巻、第2部9巻)となる予定。1986年に1巻が発売されて以降、1992年に発売された9巻までは年間1?2巻のペースで順調に刊行されていたものの、10巻は1999年、11巻は2005年の発売となり、6?7年の期間が空いた。それ以降は1?2年に1巻のペースで刊行されている(2008年現在)。1?10巻は角川書店の角川文庫より発売されていたが、現在は品切れ・重版未定(事実上の絶版)となっており、その分は光文社のカッパ・ノベルスから2巻1冊の新装版として刊行されている。また、11巻以降はカッパ・ノベルスから1巻1冊で刊行されている。
まっち棒 きたみ ショートス バルト デンバー トスタチン チップ はじめて ばんか カラー ニュー ラジウム アドミラル プロフィット ネリカ スレッド 恋草子 ラッカー プレミア コリック サーフス ケード アサイン サーチ大潮 リンガ メイリオ オブラー ソクラ コサック からし菜 パラリ ゲバ上位 ヌーデン セルフレジ 草枕 トング 夢の果て ホソル びわ検 ひつじの涙 チャイ ナッツ パー 対策リマ ブラボ タイム ラングーン メキシコ ハクサンイ かいらん

アルスラーン
[第1部]
当作品の主人公。はじめ14歳、作中で15歳となる。パルスの国王(シャーオ)アンドラゴラス三世の子で、パルス国の若き王太子。澄み切った夜空のような黒い瞳を持つ。初陣を飾るはずだった第一次アトロパテネ会戦において、パルス軍はルシタニア軍に大敗を喫し、ダリューンただ1騎に護られて戦場を離脱する。その後、ダリューンの親友ナルサスを軍師兼宮廷画家に迎え、多士済々たる部下とともに残存勢力を集結させ、王都奪還を目指す。温厚な性格であり他人の手柄を妬む事がないため、部下によく慕われるという、王として重要な素質を持つ。出生に重大な秘密がある。
人柄の良さだけが取り柄と評される事もあるが、ナルサスを宮廷画家として招き入れるという「奇策」で幕下に招聘する事に成功したり、またシャガードの処遇についてなど、時折、並外れた機知と感性を示す。また、優秀な部下達の影に隠れがちだが、武芸の腕前も人並み以上に優れる。
[第2部]
パルス国の第19代国王。18歳。ルシタニア軍から王都エクバターナを解放し、パルスの奴隷制度を廃止したことから「解放王(サーシュヤント / 「サリューシャント」とルビが振られている箇所もある)」と呼ばれる。質素な生活、巨大な武勲、気さくな性格などから国民に絶大な人気を誇る。第一部の終盤で明らかとなった出生の秘密は自ら公にしたが、国民からの支持は不動だった。王太子として育ちながらも毒舌家ぞろいの臣下に囲まれていたこともあってギーヴをして「悪知恵が成長された模様」と評される。身長も伸び、獅子狩人(シールギール)の称号も得て、為政者として着実に成長している。また、エラムただ1人を伴って、お忍びで城下を散策する事を趣味としており、最近ではその途上で重大事件に遭遇する事も多い。なお、「解放王」の由来はゾロアスター教の「救済者(サオシュヤント)」より。

ヒルメス
[第1部]
第17代国王オスロエス五世の子。武勇に優れ、その技量はダリューンと互角で作品中に登場する武人としては常に上位にある。本来ならオスロエス五世の後を継いで即位するはずだったが、子供の頃に叔父のアンドラゴラスによって火事に見せかけた暗殺に遭い、公式には死亡とされた。未遂には終わったものの、顔の右半面に大火傷を負い、無意識に火を恐れるなど後の人生に影を落とした。自らを正当な王位継承者と信じており、王位を奪ったアンドラゴラスへの復讐のために銀色の仮面をかぶって戦火に身を投じる。身分を偽ってルシタニアを利用し、パルスを侵略させた。ルシタニア人に対しては銀仮面卿と名乗る。火事から生き延びた後はマルヤムへ逃れてしばらく滞在したらしく、その際にマルヤムの内親王イリーナと交流し、互いに惹かれあう。実は彼の出生にも秘密が隠されていた。
[第2部]
アルスラーンに敗れた後チュルクへ流れ、しばし滞在する間にカルハナの謀臣として彼の即位に功績を立てた。この地で妻のイリーナを失う。カルハナ王の命によりトゥラーン人を組織して仮面兵団を組織、シンドゥラを劫略するもアルスラーンにより撃破され、残兵を率いて海路ミスルへ逃れる。ミスルではクシャーフル卿と名乗り、ミスルを手中とするために暗躍を開始する。国王の寵姫となった「孔雀姫」フィトナの協力を得て、首尾よく南方軍都督(キャランタル)に就任する事となるが、任地に赴く直前、自分の偽物である「黄金仮面」シャガードの叛意による国王弑逆事件が起こる。ヒルメスはこの事件を利用し、腹心ザンデの仇であるマシニッサを国王殺害の共犯者に仕立て上げ、これを討ち果たすと同時に、幼少の新国王を擁立して権勢を握る。
苛烈な人為こそ変わってはいないものの、自身の野心を正当化する事もなく、自身の器量がアルスラーンより劣る事を自覚するなど、以前に比べ幾分か思考は軟化してきている。ミスルを手中に納める謀略についても、悪事として楽しんでいる節がある。また、民衆のための政治を行わなければ支配も長続きしないと自覚したり、元貴族という身分だけを理由に尊大に振る舞うクオレインを「自分の能力に自慢できることはないのか」と嘲笑したあげく斬り捨てたり、ナルサスへの復讐に固執するあまり視野狭窄を起こしている黄金仮面の姿にかつての自分のようだと自嘲するなど、視野も遥かに広くなっている。一方で武人としての技量は以前と変わらず、ますます技量を高めたダリューンの後塵を拝するようになってしまった。
著者の田中芳樹によると、中国の南北朝時代の人物である蕭宝寅が、まさしくヒルメスにそっくりの人物であるとの事。アルスラーン戦記執筆後に知った人物でありモデルではないが、ヒルメスが内政に関心を持つあたりにはその影響が見られる。

パルス
十六翼将
アルスラーンの主な臣下たちを「解放王アルスラーンの十六翼将」と呼ぶ。これはパルスの軍事制度に正式に存在した役職ではなく、アルスラーンと共に王都を奪還し、その後も彼の治める王朝を支えて活躍したとされる伝説的な英雄たちに対する、作品世界における後世の人々からの称賛を込めた呼び名である。吟遊詩人がアルスラーンの事跡を物語る時、聴衆に向かって「十六翼将の名を知るや?」と問い、聴衆は指折り数えてこれに応じるという。

ダリューン

[第1部]
パルス国の万騎長(マルズバーン・1万の騎兵を指揮する将)の1人。初登場時27歳。大将軍(エーラーン)ヴァフリーズの甥。黒い甲冑と真紅の裏地の黒マントを身に纏い、愛馬・黒影号(シャブラング)を駆る黒衣の騎士として大陸公路有数の戦士として名を馳せている。また、過去に大陸公路最強と謳われたトゥラーンの王弟を馬上から切り伏せたこともあり、本作品開始後においてはヒルメスと並ぶ最強の武人である。「戦士の中の戦士」(マルダーンフ・マルダーン)や「猛虎将軍」(ショラ・セーナニー/シンドゥラでの呼び名)など数々の異名を持つ。12人の万騎長の中では最も若年であった。伯父の遺言と第一次アトロパテネの戦いの敗北を受けて、アルスラーンを連れ、親友ナルサスを頼る。アルスラーンには絶対の忠誠を誓っており、アルスラーンが王者らしく成長していることを喜ぶ。謹厳実直・質実剛健の人だが、ナルサス、および彼の画業に絡むと微妙に口の悪さが滲み出る。2人の会話はほとんど漫才(バハーネ)であり、とても大陸公路に冠絶する勇将と智将の会話とは思えないほどである。
[第2部]
パルス国の万騎長。31歳。先のルシタニア戦やシンドゥラでの戦い、対トゥラーン戦、対ミスル戦においてパルス軍随一の武勲を上げ、大陸公路最強の戦士としてその名を轟かせている。その技量はますます磨き上げられ、かつて互角とされたヒルメスをも凌駕している。ルシタニア侵攻時の戦功第一と呼ばれたが、前線での戦いを望んで大将軍の地位をキシュワードに譲った。クバードと共に「大将軍格」(エル・エーラーン)と呼ばれる。
ナルサス

[第1部]
パルス国のダルバンド内海沿岸に広がるダイラム地方の旧領主。初登場時26歳。アルスラーン軍の軍師にしてアルスラーンの政治・軍事の師匠。政戦両略に長けており、かつてチュルク・トゥラーン・シンドゥラの3国による連合軍が攻めて来た際、流言を巧みにばら撒いて連合軍内に内紛を引き起こして見事撃退した。その功により、アンドラゴラス3世によって宮廷書記官(ディビール)として抜擢される。しかし、度重なる諫言をアンドラゴラス三世に忌避され、さらには役人の不正を暴いたことから命を狙われたため、宮廷書記官の座と領地を返上してバシュル山に隠棲していた。アトロパテネの戦いに敗れて落ち延びたアルスラーンとダリューンを匿った際にアルスラーンの「説得」を受けて再び世に出る。シンドゥラ語を始めとする各国語を解し、政務・軍略双方に深く通じ、シンドゥラ・トゥラーン・ルシタニア各軍を翻弄する。シンドゥラ王位継承戦役の後は、中書令(サトライプ)に一時的に就任するが、その地位をルーシャンに譲り軍師の役職である軍機卿(フォッサート)の地位につく。文弱の貴公子と思われがちだが、剣の腕前も達人級である。アルスラーンにパルス国の旧体制や奴隷制の誤りを説き、後のアルスラーン政権の礎を作る。優しげな容姿に似合わない毒舌家でもある。趣味の画才は知勇とは遠くかけ離れたもので、親友のダリューンにことあるごとにけなされている。陣営に加わる際にアルスラーンより「宮廷画家」の地位を与えると言われており、エクバターナ奪還後にはキシュワードやクバードからも論功行賞の行方を不安視された。
[第2部]
パルス国の「副宰相(フラマート)であり宮廷画家」とされるが、本人曰く「宮廷画家であり副宰相」。30歳。東のチュルク・西のミスルの侵攻を防ぐなど、新生パルス政権でも政戦両略で活躍する。神算鬼謀と称されるに足る人物であるが、事実と真実を正確に捉え、正しい方向を指し示す明哲さにこそ本領が発揮されると言える。一方で芸術方面では才能が皆無であるばかりかそれを自覚する自己評価能力すら無く、パルス内で「パルスの宮廷画家」といえば泣く子も笑うと言われ、「好きこそものの上手なれ」という教育文化をたった1人で破壊した人物としても知られている。孔雀羽根のくすぐり拷問を発明し、チュルクの王族を、犠牲者いわく「きたない拷問」にかけたことがある。ルーシャンがナルサスへと宰相の座を渡そうとしているが、彼自身は宮廷画家の地位に執着している為、一向に承諾しようとしない。
ギーヴ

[第1部]
流浪の楽士を自称する美青年。頭髪は赤紫色の23歳。剣や弓の扱いから楽器、果ては女性の扱いにまでも優れる。特に弓の扱いに関しては神業的な腕前を誇り、エクバターナがルシタニアに包囲された際には囚われの万騎長シャプールの意を受けて遠矢で射殺している。自らをアシ女神の僕とし、ファランギースをアシ女神と同一視している。彼女との出会いを経てなりゆきでアルスラーン陣営に加わる。飄々とした性格でどこか人を食った発言も多いが、アルスラーンが王城の外で育ったことを見抜くなど、洞察力は鋭い。デマヴァント山ではヒルメスが宝剣ルクナバードを掘り返さんとしているところに出くわし、ヒルメスに王としての資格がないと言い放って剣がヒルメスの手に落ちることを防いだ。また、アルスラーンの異称である「解放王」を最初に称えたのはギーヴだとされている。第二次アトロパテネの戦いにおいてルシタニア軍で最も高潔な騎士と謳われたモンフェラート将軍を討ち取り、パルス王室の財宝が暴兵に奪われることを防いだ。本人曰く、2枚の舌に加え、10以上の”色のない舌”を持つ。また、ギーヴならぬ悪鬼(デーヴ)の尻尾を苦労して隠しているらしい。ファランギースに対して好意を持っているのは確かだが、彼女にあしらわれることも楽しんでいるそぶりも見られる。
[第2部]
パルス国の宮廷楽士にして巡検使(アムル)。26歳。飄々とした性格は相変わらずで「不逞・不遜・不敵と三拍子揃った男」「火を消す代わりに洪水を起こす」と言われる。国王直属としてパルス国内を自由に旅して得た情報をアルスラーンに報告する任務を帯びており、ナルサスの意を受けて遊軍的役割を担うこともある。アルスラーンに仕えてはいるが「パルス随一の色事師」振りは健在である。個人的な興味から旧バダフシャーン公国へと向かう。
ファランギース

[第1部]
ミスラ神を信仰する女神官(カーヒーナ)。22歳。ミスラ神殿がアルスラーン生誕時にその名で寄進されたものであることから、神殿よりアルスラーンを守護するべく派遣された。弓の扱いに優れ、精霊(ジン)の声を聞き、水晶の横笛を奏でることで彼らを使役することもできる。黒絹の髪・緑玉の瞳・白珠の肌・糸杉の身体を持つ、「自他共に認める」絶世の美女。ギーヴやクバード、ラジェンドラらから言い寄られるが本人はあっさりと拒絶している。酒豪でギーヴやラジェンドラが束になっても敵わなかった。
[第2部]
大戦後はフゼスターン地方の神殿に戻るが、改めてアルスラーンに呼び出されて巡検使と宮廷顧問官(ブラフマン)に任じられる。25歳。その美しさと強さは変わらず。湖上祭でかつての恋人の弟と再会することとなる。オクサス地方の変事にアルフリードと共に調査に向かい、蛇王復活の兆候を目の当たりにする。

2009年02月05日

レオナ・ハイデルン(Leona Heidern)

初登場はアーケードゲーム『KOF'96』。ハイデルンの率いる傭兵部隊に所属する傭兵で、階級は無し。前線を一旦退き、後方からの指揮に回ることになったハイデルンの代わりとして参戦。ハイデルン流暗殺術を格闘スタイルとし、基本の必殺技はほぼハイデルンと似通う。
シャンツェ こせん スーフィ フォーミュ 枯葉の輪舞 ペーンイウ ハヤシライ テラー ミズナラ コード ナウル コメン すぎな 全国情報 黒皮かぼち バイオス 黄金魂 フィーン ハング 明日へ ダッカ がんばれ ダッキ ダーティ 首飾り ヌメア オンシー オーオー シンク フライシト ボヨール アングル モサド フローリス カーフス ハラン フラット りーすりん マテリア 八千代 えびす ストーン シイ人気 ゆうすい ジェション 優しい雨 ソフト ブロック アルジェ ウジュン

両親を目の前で殺されて記憶を失った後、身寄りが無くハイデルンの養女となっているが、彼女の実父であるオロチ八傑集のガイデルとその妻を殺害したのは他ならない彼女自身である(彼女の場合はオロチの血の暴走によるものだが、それを引き起こしたのは四天王の一人のゲーニッツである)。「レオナ・ハイデルン」というのは本名ではなく(名前の「レオナ」は本名だが、名字の「ハイデルン」は元々名前自体が偽名である)、コードネームである。

記憶を失ってハイデルンに引き取られた後、普通の子供らしい生活を経験せずに、徹底的に軍人として育てられている(ただしハイデルンが強制したものではなく、レオナが希望した)ため、人間らしい感情に乏しく(この点は、その後ラルフやクラークとの付き合いによって幾分か改善されている)、任務に忠実・クール・一切の無駄がない少女となっている。

『KOF'97』におけるオロチとの戦いで全てを思い出したレオナは自ら命を絶とうとするが、ラルフとクラークの説得により家族の分も生き続ける事を選ぶ。以来、ラルフとは良い仲…になると思われたが進展はないようである(SNK側は『KOF'97』のガイドブックで「レオナとラルフは実は特別な関係ですか?」という質問に「違います!」ときっぱりと否定した)。なお、この時ラルフに貰ったバンダナは部屋に置きっぱなしになっているらしい。オロチの血に苦しんでいるという共通点のある八神庵に多少は共感を抱いているようだが、庵には全く相手にされておらず、レオナ自身も恋愛感情に類するものは持っていない。

前大会(『'96』)で両親殺害の真相を知ってしまった事によるショックとトラウマが原因で、『'97』にて戦争中に巻き込まれていた少年を死なせてしまう(正式には、生死不明ということになっている)というミスを起こす。その後クラークから『'97』の資料を手にした彼女は、その中に載っていたクリスが生死不明の少年と重なって見えていた。

『'97』では特定の状態下で暴走を起こした状態のレオナが中ボスとして登場。名前は「ヤミノナカオロチノチニメザメルレオナ」となり、通称「覚醒(もしくは暴走)レオナ」。暴走時は髪の色が変わり、普段は青い髪がピンク色となる。なお、小説版の『'96』では本来ゲームには登場しない暴走した状態で八神庵と戦いを繰り広げる場面がある(ちなみに庵も暴走した状態になっていた)。

「力は制御できるけど、それを頼るつもりはない」と言う彼女のセリフの通り、『'98』以降は暴走せず力をコントロール出来ていたが、『2003』からのアッシュ編では再び不安定な状態に陥っている。そのためか『XI』では登場以来、初の欠場となっている。『XII』では再登場。

何故かチャン・コーハンに敬礼をする事がある。これは元々『'98』において対チャンの試合開始前デモ(「あなたでは勝てない……」)と対ラルフの試合開始前デモ(敬礼する)がバグで入れ替わってしまった結果であるが、本来敬礼するはずのラルフに、うつむいて「あなたでは勝てない…」と呆れたように言う姿は、アンソロジーでもネタになった。最初はバグであったチャンへの敬礼ではあるが、後に「純粋な力に対して敬意を表している」という設定が加えられ、正式なものになっている(ただし、この「純粋な力」の正体は不明)。

『'96』と『'97』の間で体重が9kg増えたのは「筋トレで鍛えた」から。工場見学という趣味が加わっているのは「お土産がもらえるから」である。

『MI』シリーズなど一部作品を除きほとんど衣装が変わっていなかったが、『XII』において衣装の変更がなされた。

技の解説
名称やモーションが、どこかで聞いたか見たような技が多い。

必殺技
ムーンスラッシャー
満月のような軌道を描く手刀を繰り出す、ハイデルン譲りの対空技。
リバーススラッシャー
『MI2』から使用。「ムーンスラッシャー」からの追加技。
Xキャリバー
飛び込んでXの字の手刀で襲いかかる。『'98』では相手を捕まえてから、手刀を決める。
『'99』以降は空中から出すように変更され、ジャンプの軌道変更にも使用可能。
グランドセイバー
低い姿勢で相手に駆け寄り、手刀による一撃をくらわす。
『'99』以降、これのものと同じだったダッシュ動作が変更された。
グライディングバスター
強「グランドセイバー」からの追加技。吹き飛んだ相手に目がけて、自らも飛び上がってサマーソルトキックの要領で追撃する。なお、技名がついたのは『'98』から。
ボルテックランチャー
自身の目の前に真空のエネルギー弾を生み出す。飛び道具ではない(強で出すと少し飛ぶ)が多段ヒットして、追撃も可能。
ディスチャージ
『MI2』から使用。「ボルテックランチャー」からの追加技。エネルギー弾をバウンドさせて飛ばす。
アイスラッシャー
『'97』から使用。髪の中に仕込んだブーメランを放つ飛び道具。元ネタは『ウルトラセブン』の必殺技「アイスラッガー」。緩やかな速度で飛び、戻ってくるまで自身は無防備となるため、ネタ技の域を出ない。そのためか『'99』以降は削除されている。『'98 UM』では投げた後、すぐ動けるようになった。
イヤリング爆弾
『'98』から使用。こちらも飛び道具で、耳につけたイヤリング型爆弾を投げる。地面を転がって進み、敵に触れると爆発する。元ネタは『秘密戦隊ゴレンジャー』のモモレンジャー。
格闘大会のKOFにおいて爆弾は反則に当たると思われるが、チームメイトのウィップがデザートイーグルを使用していたり、サイボーグのマキシマが参加可能なので問題ないと思われる。
イヤリング爆弾・ハートアタック
『'99』から使用。相手にイヤリング爆弾をくっつけ、時間差を付けて爆発させる技。コマンド再入力で任意のタイミングで爆破することも出来る。
「ハートアタック」の名前は『ジョジョの奇妙な冒険』第4部の吉良吉影の「シアーハートアタック」が元ネタ。
ストームブリンガー
『熱闘!KOF'96』の暴走レオナのみが使用。ハイデルン同様に、相手に手刀を突き刺して体力を奪うコマンド投げ。

超必殺技
Vスラッシャー
空中から敵に飛びかかり、手刀でVの字に切りつける技。MAX版だと合間に手首のかえしが入り、まさに『ボルテスV』の「天空剣Vの字斬り」である。なお、『熱闘!KOF'96』の暴走レオナのみ、ルガールやマチュアの超必殺技に見られる髑髏のエフェクトが入る。
Vスラッシャー・エアリアル
「Vスラッシャー」のリーダー超必殺技バージョン。通常の「Vスラッシャー」が空中から仕掛けるのに対して、地上から飛んで相手を捕まえてから決める。
リボルスパーク
『'97』から使用。ダッシュで接近してから相手の腹部に手刀を突き刺し、引き抜いてポーズを決めた後に爆発させる技。『'98』ではMAX版を使用すると暴走レオナに覚醒して攻撃していた(『2002』『NW』でのMAX2も同様)。元々はハイデルンのボツ技だった(その後ハイデルンにも「ハイデルンエンド」という似た技が実装された)。
元ネタは『仮面ライダーBLACK RX』の「リボルクラッシュ」。
グラビティストーム
『'97』から使用。相手を蹴り上げ、下から手刀を突き刺して爆発させる技。浣腸を彷彿とさせるせいか、『'99』以降は後述の「グレイトフルデッド」と入れ替わるように削除されていたが、『MI2』で復活した。
名前は『UFOロボ グレンダイザー』の「反重力ストーム」が元ネタとされている。
グレイトフルデッド
『'99』から使用。相手の方に飛んで捕まえると、全身からオーラを出しつつ相手に手を当てダメージを与える。レオナ版「ファイナルブリンガー」と言った感じの技だが、ハイデルン版とは異なり体力回復は無し。
名前は『ジョジョの奇妙な冒険』第5部のプロシュートのスタンドが元ネタ。
(名称不明)
『熱闘!KOF'96』の暴走レオナのみが使用。前方に突進した後、ムーンスラッシャーを連続で繰り出し、グライディングバスターで締める乱舞技。

2009年01月21日

宗教が複数の言語に跨って広がっていくと

ある宗教が複数の言語に跨って広がっていくと、その経典あるいは聖典を翻訳しようという動きもでるのだが、そこには困難な問題が生じることがある。翻訳一般の問題として、語彙体系も社会環境も異なれば、原語から翻訳語へ正確に語句が対応しているとは限らず、対応する語句が存在しない、あるいはどういう語句を当てても意味がズレることは多々ある。また文法体系が異なれば原語で表現できていたニュアンスが翻訳語の中ではどうしても正確に表現できないことも生じる。そうした中で翻訳者が一つの訳文を選択するに当たっては、翻訳者の判断とその前提となる原典解釈が必須であるが、その「正しい」解釈をめぐって時には教団内で深刻な対立が生じるのである。宗教改革時にプロテスタント側がカトリック教会の認めない聖書翻訳を行って対抗し、その翻訳を拠りどころにしてプロテスタント教会を成立させていったことはその典型例であろう。

そもそも西方教会では民衆語(ヴァナキュラーな言葉)への翻訳を禁止していた時期があり(聖書翻訳の歴史の中世の項も参照)、民衆が自由に聖書解釈することに神経を尖らせていたが、それは宗教史的に見れば特異なことではない。たとえば、イスラームの聖典であるクルアーン(コーラン)は原語であるアラビア語から他言語への翻訳が禁じられ、翻訳されたとしてもそれはクルアーンの注釈書もしくは解説書であるとみなされていた[1]。タイの仏教社会でも、パーリー語経典を訳すことなくそのまま丸暗記させている[2]。

聖典の翻訳禁止は、多くの人々にとっては外国語でしか聖典に接することができず、大変なストレスをかけることになるのだが、翻訳が引き起こすリスクはそれ以上に大きいと見なされることもあったのである。

逐語訳
できる限り議論の余地がない正確な翻訳を行うために、原語と翻訳語の間で機械的な逐語訳のシステムを組上げてしまう例もある。漢文に訓点をつけて日本語に読み下す方法はこれに該当するし、サンスクリット語経典を逐語訳するための母国語表記法自体をそれに合わせて作り上げたチベット仏教の例もあるが[3]、少数例にとどまる。異なる言語間での逐語訳は、多くの場合不自然な翻訳文を引き起こすことになる。

そうはいっても逐語訳は聖典の翻訳論としては有力であり、多くの聖書翻訳(特に学問的正確さを追求する翻訳)は可能な限りの逐語訳が原則であった。当然のこととして、翻訳語としての文章には不自然な部分が発生し、それらは後に続く改訂翻訳の議論の対象となってきた。また、逐語訳であっても訳語の選択次第で翻訳文が意味するところは相当に異なったものとなり、そうした訳語についても大いに議論がなされてきた。なお現在、日本語翻訳でもっとも逐語訳に徹しているのはおそらく岩波委員会訳聖書と田川建三訳聖書である。

意訳
逐語訳と対極にあるのが意訳である。たとえば新約聖書は2000年前のパレスチナ周辺を主な舞台としているが、時代も社会も異なる背景で書かれた文書は、たとえ逐語訳を行ったところで、その文章が意味するところは伝わり辛くなっている。そうであるならば、読者にとって正しく理解できるように意訳するべきだという立場が存在する。代表的なのはナイダ(en:Eugene Nida)の動的等価翻訳理論(en: Dynamic and formal equivalence)であろう。つまり、文脈に応じて言葉は変えるが意味するところは同じになるように訳するということである。(これに対して逐語訳的方法は形式的等価翻訳と呼ばれる。)ナイダの理論は一時期 アメリカ聖書協会の翻訳事業を主導し、今日流通しているToday's English Bible:TEV(Good News Bible:GNBとも称する)やContemporaly English Bible:CEBなどを生み出した。日本語では共同訳聖書の作業にあたってこの理論が指針として採用され、ナイダが来日して講演するなどしている。しかし、動的等価翻訳理論は翻訳者の判断で原文を大きく捻じ曲げているに過ぎないという批判もあり評価は分かれる。共同訳聖書でも批判が相次ぎ、作業をやり直した新共同訳の翻訳委員会では動的等価翻訳を指針から外している。
ドール ワーカー イエロー コヒル ナツメグ トリックス パントリ スプーン パハク ツイン イートイ しゃみ プリズム リンゴ ストロベ チュー オムライス 冒険家 サイメッ チュートリ チョン フェニ キャン ファンブル フィス サザン ビエラ デパー 木綿のハン コイズ ラウンド ジンコール パフス マザー オシレー にっけ ベンチ こかげ チョッキ 日本全国 ユニタ タグカード オプテ ユトレ アドイン フリゲート 極楽トンボ トルリン ワスレナ フェミ

もっと過激な意訳を志す立場も存在し、The Living Bible:TLB(日本語版は『リビングバイブル』)のように原文がそもそもどの程度の難易度の文章であったかどうかも度外視して、とにかく分かりやすく翻訳した聖書もある。学問的な正確さは二の次にされているから、聖書学者などからの評判は悪い。しかし、こうした聖書翻訳事業は「一人でも多くの人に分かりやすく神の言葉を届けることこそが重要だ」と考える立場の人々によって支えられてきた。前述のTEVやCEBはアメリカ聖書協会が発行し、安価で大量に配布されてきたし、世界中に作られた各国の聖書協会の多くがこの翻訳に準拠した各国語の聖書を作って、その国々で配布されてきたのである。

ともあれ意訳と逐語訳を二つの極として、今までに行われてきた聖書翻訳のほとんどはこの二つの立場をケースバイケースで使い分けてきたといってよい。